株式会社ゼニス

テキストが入ります。
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熟田津の月(2020年9月)

ゼニスでは毎年テーマを決め、和歌・俳句・偉人の名言などにオリジナルの英訳をつけて、写真やイラストとともに毎月のはがきをお送りしています。今年は新型コロナウイルスの影響による社会状況を考慮して、メールにてお届けしています。ちょっと研究の手を休め、季節の移り変わりを感じたり、短い言葉の奥にある情景に思いを馳せたり、様々に楽しんでいただければ幸いです。

言霊の宿る歌

今年の中秋の名月は10月1日だそうです。もうすぐですね。ということで、今月は「月」に関連した和歌を選びました。

熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今はこぎ出でな (巻一・八)

熟田津から船出をしようと月の出を待っていると、待ち望んでいた通り、月も出、潮の流れもちょうどよい具合になった。さあ、今こそ漕ぎ出そうぞ。(伊藤博, 萬葉集 釋注一, 集英社2005)

<英訳>
As we wait for the timing to set sail from Nikitatsu
The moon has come out and the tide turned perfect
Now is the time to row out to sea

時は、斉明7年(西暦661年)。乙巳の変(645)の16年後。大化の改新による政治改革、天皇中心の中央集権国家構築が進められている真っただ中のことです。
この頃、朝鮮半島は4世紀以来の三国時代(高句麗・百済・新羅の三国対立の時代)の最終段階にあり、半島統一をはかる新羅は唐と協力し、660年まず百済を討伐します。
ここに百済からの要請を請けた斉明天皇。百済再興の支援を決意し、来るべき朝鮮出兵に備え、政府首脳部を博多へ移すことを決意します。九州・筑紫朝倉宮(朝倉橘広庭宮)を目指し、正月6日に難波津を出航。この和歌の舞台となる熟田津(愛媛県松山市付近の港)には、14日に到着します。そしてしばらくこの地に滞在した後の3月17日ごろ、朝倉橘広庭宮へ向かって出航したと考えてられています。まさにその出航の際に「女帝の言葉」として詠まれたのがこの和歌なのです。

「女帝の言葉として」というのは、実際にこの和歌を詠んだのは額田王だからです。額田王については、歴史資料においては記述がほとんどなく、謎につつまれた女性ですが、万葉集に残された和歌からその人物像が語られています。宮廷に仕え、斉明・天智・天武の三人の天皇と深いかかわり持ち、天皇にかわりその言葉を和歌にしたためる「御言持歌人」であったと言われています。天智・天武、両天皇から愛されたと推測できる秀歌が残されていることからも、きっと才色兼備の素敵な女性だったのだと想像できます。

さて熟田津到着が1日14日、出航が3月17日とすると、この地に2か月ほど停泊していたことになります。何故2か月も停泊したのか?潮の流れのタイミングと天候における好条件が重なるときを待っていたのだと考えられます。また2か月というと、実働部隊である兵士たちにとっては、結構長かったのではないかと考えられます。出航の際には改めて兵士たちの士気を高める必要がありそうです。ここにこの和歌が詠まれた意味を見出すことができると思います。

またこの時代、言語には霊力あり、願望の言葉を発すると、幸運が実現し、不吉の言葉を発すると、凶事がふりかかるという考え方があったようです。「思いを言葉の力で現実にする」ために和歌が詠まれたことも多かったようです。この和歌もまさに来る朝鮮出兵に向け勝利を実現すべく好機の到来を歌にしたためたものと考えられます。

熟田津にひしめく大船団の兵士たちが固唾をのんで見守る中、この和歌を詠むことにより出航を宣言し、兵士たちを奮いたたせています。「輝く月、潮流の好タイミング」と勝機を連想させる状況を引用し、勝利が「現実になる」という願いが言葉に込められています。「今まさに潮も月も絶好調!今こそ勝利のためにいざ出航!」と輝く月に向かって和歌にしたためている額田王の姿をイメージすることができます。

そこで、和歌で詠まれた月のイメージを想像し、独断で写真を選んでみました。いかがでしょうか。満月が海上を照らしているところに、西方への潮流のタイミングも到来した瞬間です。

As we wait for the timing to set sail from Nikitatsu
The moon has come out and the tide turned perfect

Now is the time to row out to sea

そして、この絶好調のタイミングに、力強く前へ進もうと「今こそ漕ぎ出そうぞ」と号令をかけています。この点においては、キング牧師が有名な演説で繰り返し唱えたフレーズを彷彿とさせます。Now is the time!(今こそ!)。そしてそこに言霊宿る歌が現実になるようにという思いを込めています。

今回の和歌では、熟田津(愛媛県松山市付近の港)が舞台ですが、難波を就航した船は、熟田津に到着するまでに、現在の加古川付近に停泊しており、そのときに詠まれた和歌も万葉集におさめられています。次回はその和歌をそのときの情景を中心にお話したいと思います。
その時の情景を連想させる写真と文章を名古屋大学名誉教授三矢先生からご提供いただく予定です。どうぞお楽しみに。



以下の文献を参照させていただきました。
・伊藤博、萬葉集 釋注一、集英社、2005
・佐々木幸綱、万葉集、NHK出版、2015
・斎藤茂吉、万葉秀歌、岩波新書、上巻、1938
・中西進、万葉集全訳注(一)、講談社文庫、1978
・森公章、「白村江」以後、講談社選書、1998
・宇治谷 孟、「日本書紀(下)」、講談社学術文庫、1998
・八木孝昌、月と潮の照応―万葉集八番「熟田津」歌考―
・小野寛,2000:天象の万葉集(万葉の月)高岡市万葉歴史館論集3
・中西進、万葉の歌びとたち、角川選書、2019
・佐々木隆、言霊とは何か、中公新書、2013
・出口治明、0から学ぶ「日本史」講義 古代編、文芸春秋、2018