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秋の山~姉弟の物語(2020年11月)

ゼニスでは毎年テーマを決め、和歌・俳句・偉人の名言などにオリジナルの英訳をつけて、写真やイラストとともに毎月のはがきをお送りしています。今年は新型コロナウイルスの影響による社会状況を考慮して、メールにてお届けしています。ちょっと研究の手を休め、季節の移り変わりを感じたり、短い言葉の奥にある情景に思いを馳せたり、様々に楽しんでいただければ幸いです。

ふたり()けど ()()ぎかたき 秋山(あきやま)を いかにか(きみ)が ひとり()ゆらむ ― 大伯皇女(巻一、106)

今月は、「秋の山」が出てくる和歌をとり上げました。この和歌、恋の歌のようにも思えますが、実は弟を思って姉が詠んだものです。作者は大伯皇女。そして弟は大津謀反事件(686年)で死に追いやられた大津皇子です。
今回はこの和歌の背後にある大津謀反事件にかかわる人々の人間模様や心情を想像し、英語表現を考えてみました。人物相関図をご参照の上、ご一読ください。
また写真をご提供いただいた早稲田大学 教授 深澤先生より、写真に関するエピソードもございますので、併せて御覧ください。

人物相関図

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母 大田皇女と鸕野讚良皇女

この物語の主人公は、和歌の作者である姉の大伯皇女とその弟の大津皇子。二人の父は、大海人皇子、すなわち後の天武天皇。そして母は大田皇女です。
人物相関図をご覧いただきたいのですが、天智天皇と蘇我遠智娘の間に生まれた姉妹が、二人の母大田皇女、そして鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ。天武朝では皇后。後の持統天皇。)です。少ない史料からの推測ではありますが、この姉妹は対照的であったようです。姉の大田皇女は早逝しているの対し、妹の鸕野讚良は女帝にまでなっています。「薄幸の美女、男性に守られて大切にされる女性」、と「強い女性リーダー、逞しく自分で生きていく女性」、といったような対比へとイメージが膨らみます。
大田皇女は、661年、百済救済のための征西途中、大伯の海を航行中の船上で、大伯皇女を出産します。そしてその後663年、九州の那大津で大津皇子を出産します。しかし、もともとからだの弱かった大田皇女は、産後の肥立ちも悪く667年、この幼い二人を残して、その短い生涯を閉じるのでした。このことは同時に、幼くして母を亡くした二人の過酷な運命の始まりとなったのでした。

一方、鸕野讚良の方は662年大海人皇子(後の天武天皇)の子、草壁皇子を生んでいます。彼女は、夫であった天武天皇の遺志を受け継ぎ、藤原宮の建設、律令制度の確立などを成し遂げ、後々まで続く天皇制の基盤を確固たるものにした、後の持統天皇です。その優れた政治手腕たる資質は、もしかすると生来のものであったのかもしれません。この秀逸した資質と才能を備えた彼女でも、飛鳥時代にあっては、儚く触れれば壊れてしまいそうな大伯皇女の美しさに、どこか引け目を感じていたとも想像できます。そもそも人間とは自分にないものに憧れ、それを持つものに嫉妬心を抱いてしまうものかもしれません。鸕野讚良皇女も、もしかすると姉に対する幾ばくかの嫉妬や羨望を心に抱いていのかもしれません。
そんな姉の忘れ形見、母と同じ美しさを持つ大伯皇女と天武天皇の血を受け継いだ聡明で逞しい大津皇子が、立派に成長していくのを見るにつけ、常に我が子草壁皇子と比較し、姉大田皇女の死後も、心の闇に蠢く魑魅魍魎に苦しめられ、また我が子の皇位継承において次第に不安や焦りを感じるようになっていったとも思えます。とすれば、大伯皇女と大津皇子の方も自分たちが鸕野讚良に疎まれていると感じるようになっていったと想像することもできます。

伊勢神宮斎宮となる姉大伯皇女

天智天皇と大海人皇子との兄弟対立は、言わずと知れたことですが、兄天智天皇が671年、崩御します。しかし生前からの天智と大海人との確執は、これで終止符を打つものではありませんでした。その確執はそのまま天智の息子大友皇子の間に引き継がれ、672年大友皇子と大海人皇子の戦い、壬申の乱へと発展します。当初より約束されていた大海人皇子の皇位承継を反故にし、大友皇子に承継させるがため、天智生存中、既に大海人皇子討伐が計画されていたとも言われています。
結果は、大海人皇子に軍配が上がります。大海人軍の勝利は、なによりも戦における戦略と戦術上の成果であると言われていますが、大海人皇子の人望により多くの地方豪族たちを味方につけることができたこと、そして女性ながらも大海人皇子とともに謀反の策略をたてたと言われる鸕野讚良皇女の貢献が大きく起因していたのではないかと思われます。翌673年、大海人皇子は天武天皇として即位し、同時に鸕野讚良皇女は皇后となります。このときすでに鸕野讚良の地位は天皇に次ぐ強固なものとなっていたと思われます。そのことは同時に、母を亡くし、後ろ盾のない大津皇子にくらべ、草壁皇子が皇位継承はもちろんあらゆる面おいて、優位にたったことを意味したと言えそうです。しかし、この時点ではまだ「決着」はついていません。草壁皇子の皇位継承を確実なものにするには、臣下や豪族たちの心をつかみ、彼らの信認を得ることが必要になります。皇后、鸕野讚良の大津皇子への排除政策はまだまだ続くことになります。

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この同じ年、天武は、皇祖神・天照大神を祀る伊勢神宮の斎王制度を推古天皇時以来50年ぶりに復活させ、そしてこの斎王にまだ13歳の大伯皇女を選んだようです。斎王とは伊勢神宮および賀茂社に奉仕する未婚の内親王もしくは皇女のことです。斎王となれば、恋も結婚できず、男性と会うことすらできなかったようです。そうなるともちろん都に帰ってくることもできません。まだ11歳の大津皇子はこの制度を敢えて復活させ、姉大伯皇女を斎王に選んだ父天武を幼心にも憎んだことでしょう。姉大伯と精神的に身を寄せ合うように生きてきた大津にとって姉が遠くへ行ってしまうことに、さぞ孤独と寂しさを感じたことでしょう。そしてこの一件の背後にも、もしかすると皇后の影があったかもしれません。


大津皇子と草壁皇子

天武天皇には、10人の妻との間に17人の子供(11人の皇子と6人の皇女)がいたといいます。その一人である大津皇子は、血筋を重んじるこの時代、血統においては皇太子となった草壁皇子と同等であり、他の皇子達より優位にあったようです。そもそも大津皇子は鸕野讚良の姉の子です。姉大田皇女が生きていれば、間違いなく大津皇子が皇太子になったと思われます。また大津皇子は、男らしい容姿を持つとともに、文武の才能にも優れ、その大らかな性格ゆえに人望を集め得たということが、日本書記や懐風藻に記述されています。これは若い頃の天武天皇とも重なるところがあったようです。一方、草壁皇子については、このような記述を史料から伺うことはできず、おそらく平凡な皇子だったのではないかと言われています。また27歳という若さで早逝していることからも、病弱だったのではないかとも推測されています。さらに大津皇子と草壁皇子の間には、石川郎女という一人の女性を巡りひと悶着もあったようです。
能力ある者の政治への登用を打ち立てた天武からすれば、文武の才能があり、人々からの人望の厚い大津皇子を朝廷の要職に起用したいと思うのは当然だと考えられます。また臣下・豪族たちの間でも、草壁皇子より大津皇子を支持する者が多かったようです。しかしそのことが草壁皇子の生母鸕野讚良を苛立たせ、大津皇子への憎しみは増していくばかりだったと想像できます。

父 天武天皇薨去

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686年9月。絶大な力をもつ天皇像をつくり、その天皇を中心とした中央主権国家作りに奔走した天武天皇が崩御します。享年65歳。この少し前、天武に間もなく訪れる死期を確信した皇后鸕野讚良は、我が子草壁皇子の皇位継承を確実なものにするため、陰陽師を使った諜報等、大津皇子排除へ向けた策略をさらにエスカレートさせていったようです。このことは、天智時代に、謀反の罪をきせられ死に追いやられた古人大兄皇子、蘇我倉山田石川麻呂、有間皇子、彼らが遭遇した残虐な事件を彷彿とさせます。政治から身を引き、あるいはたとえ出家までしたとしても、執拗に追いかけられ、最後は命を奪われてしまったようです。この時の大津皇子もまさに彼らと同じ境遇に立たされていました。どちらに進むこともできない、絶体絶命の状態です。

姉に会うため伊勢神宮へ

このような行き場のない状況において、大津皇子の方も次第に、自分の父天武が即位前、壬申の乱時にとった行動と同じように、現政権への謀反を考えるようになったと想像できます。人々から人望を得ていた大津皇子にとって、自分に賛同してくれそうな臣下や豪族達を集め、味方につけることも可能であったようにも思えます。しかし、このことが明るみに出たとしたら、即刻殺されてしまう危険のあることは否めません。すぐに行動を起こせなかったのは、大津皇子自身にも大きな葛藤や不安があったことは想像に難くありません。
こんなとき、幼い時に別れた姉大伯皇女の姿が脳裏に浮かびます。生死にかかわる深刻な状況に追い込まれた大津皇子にとって、姉は最後の心のよりどころであり、またいつ殺されるかわからない自分にとって、姉との最後の再会になるという思いもあったのかもしれません。斎王である姉に会うため、謀反の思いを心に秘め、伊勢に密かに赴きます。姉に会うのは実に13年ぶりとなります。
斎王は神に仕える身。本来たとえ家族であっても男性に会うことは許されるものではありません。それにもかかわらず突然目の前に現れた大津皇子に大伯皇女は、ただならぬことが起きているのを察したと思います。姉としては弟の話しを聞き、力になってやりたいと思ったことでしょう。しかし最終的には斎王としての立場をわきまえ、弟を都へ返したようです。その際に詠まれたのがこの和歌です。二つの相反する立場の間で葛藤し、揺れる心の様子を感じることができます。公としての立場を貫き、弟を都へ一人返したことへの後悔と弟の身に襲い掛かろうとしている危険への心配。とても切ない思いの込められた和歌なのです。

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ふたり行けど
行き過ぎかたき
秋山を
いかにか君が
ひとり越ゆらむ

The autumn mountain
so harsh and treacherous
even for the two to go over
I feel distressed thinking
how you are surmounting it
all by yourself



秋の日はたちまち暮れてしまいます。この秋山のつるべ落とし、また急変しやすい気候条件の過酷さ、さらに冬眠前の獰猛な熊も出没しやすい秋登山の危険さをharshとtreacherousで表現しました。harshは環境の厳しさだけでなく、同時に人の無慈悲、残酷さ、敵対心なども表す言葉です。この言葉により、この和歌の背景にある人間の心の奥底にある闇をも表現しようと思いました。またtreacherous も登山の危険のみならず、人の裏切り、背信、寝返りなども意味する言葉で、この山越えの背後にある人の心を山に重ね合わせて表現しました。
そしてこの和歌で一番表現したかったのは、大伯皇女の心情です。distressedを用いることで、本心に背いて弟を返した大伯皇女の動揺と深い苦悩を表現しました。さらに弟大津皇子の無事を願う気持ちには、無事に山を越えてほしいというのはもちろんですが、その先に待ち受ける困難を乗り越え、どうか無事でいてほしいという思いがあります。この2つを表現するため、両者の意味を兼ね備えたgo over, surmountを用いました。

信頼していた友の裏切り

謀反の思いを抱いたまま都に帰った大津皇子は、新羅の僧侶、行心からの教唆的な言葉により、謀反の決断を下したとも言われています。行心はもしかすると、皇后の策略により大津のもとへ遣わされたものかもしれません。そうだとしたら、大津皇子はそのことには気づかず、まんまと罠にはまったことになります。そしてこの謀反決行のため協力を得ようと河島皇子に謀反の計画を伝えたと言われています。河島皇子とは莫逆の契りをかわしており、彼のことを相当信用していたようです。しかし、河島皇子は大津皇子を裏切り、このことを朝廷に密告したようです。俄に、大津皇子は謀反の罪で捕えられ、自害させられたと言われています。
それにしても河島皇子はなぜ大津皇子を裏切ったのでしょうか?河島は天武天皇の子ではなく、天智天皇の子です。天武が勝利した壬申の乱直後はそれこそ、命の危険すらあったのかもしれません。その後吉野の盟約などがあったにせよ、天武・持統政権の下、天武の子でないということで、冷遇されていたとも想像できます。対して大津皇子は天武の子でありながら、人徳、才能を兼ね備え、いつも人々の中心にいました。河島はそんな大津に対し嫉妬心を抱いていたのかもしれません。あるいは、天武天皇の死後、皇后に権力が集中していく様を目の当たりにし、保身のため皇后・皇太子側に日和ったのかもしれません。ただ、その後河島皇子は次のような和歌を詠んでいます。

白波(しらなみ)の 浜松が()手向(たむ)けくさ 幾代(いくよ)までにか (とし)()ぬらむ(巻1 34)
これは30年前の658年、謀反のかどで紀伊道で殺された有間皇子の悲劇を思う和歌ですが、大津皇子を重ねて詠んでいるのようにも思われます。罪悪感に苛まれていた河島の心の内を推し量ることもできそうです。

大伯皇女の帰還

大津皇子の死後、大伯皇女は、謀反を企てた弟の姉ということで、これ以上伊勢神宮に仕えることができなくなり、斎宮の任を解かれます。そのときに大伯皇女が詠んだ和歌が以下になります。

大津皇子の薨ぜし後、大伯皇女、伊勢の斎宮より京に上る時に作らす歌二首
神風(かむかぜ)の 伊勢の国にもあらましを 何しか来けむ 君もあらなくに(巻二、163)
荒い風の吹く神の国伊勢にでもいた方がむしろよかったのに、どうして大和などに帰ってきたのだろう。わが弟ももうこの世にいないのに。(伊藤博、万葉集釋注一、2005)

見まく()()がする君もあらなくに (なに)しか()けむ(うま)(つか)るるに(巻二、164)
会いたいと私が願う弟もいないのに、どうして大和などに帰って来たのであろう。いたずらに馬が疲れるだけだったのに。(伊藤博、万葉集釋注一、2005)


そして、その後大津皇子は、二上山に埋葬されます。その時にも大伯皇女は次のような和歌を詠んでいます。

大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大泊皇女の哀傷しびて作らす歌二首
うつそみの 人にある()れや 明日(あす)よりは 二上山(ふたかみやま)弟背(いろせ)()れ見む(巻二、165)
現世の人であるこの私、私は明日から二上山を弟としてずっとみつづけよう。(伊藤博、万葉集釋注一、2005)

(いそ)(うへ)()ふる馬酔木(あしび)手折(たを)らめど ()すべき(きみ)()りと()はなくに(巻二、166)
岩のほとりに生える馬酔木を手折ろうとしてみるけれども、それを見せることのできる君がこの世にいるとは、世の人の誰もが言ってくれないではないか。(伊藤博、万葉集釋注一、2005)


万葉集に残された大伯皇女の和歌は、全部で6首。全て弟大津皇子を思う歌です。
人間はみんな誰かのために生きていいるのかもしれません。そのために、悲しみや憎しみという感情が生まれてくるかもしれません。大伯皇女も、鸕野讚良も、河島皇子も・・・・。

おわり

参考資料:
・伊藤博, 万葉集釋注一, 2005
・黒岩重吾, 天翔る白日 小説 大津皇子, 中央公論新社, 1996
・町田俊子, 大津皇子, 幻冬舎, 2015
・折口信夫, 死者の書, 角川ソフィア文庫, 2017
・神堀忍, 大伯皇女と大津皇子、萬葉, 54号, 1965
・山田宗睦訳, 日本書紀(下),教育社新書, 1992
・日本古典文学大系〈第69〉懐風藻, 文華秀麗集, 本朝文粋, 1964
・吉村武彦, 古代王権の展開, 集英社, 1991


今月のグリーティングカード

今回は早稲田大学教授 深澤良彰先生より、大伯皇女の和歌をイメージする写真をご提供いただきました。

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この写真は、京都・大原の三千院から勝林院へ行く途中の小川で撮影したものです。三千院は、声明(しょうみょう)の音律の「呂」と「律」を由来とする呂川(りょせん)と律川(りつせん)という2本の川に挟まれています。この小川は、境内の北を流れる呂川へと流れ込んでいます。
大津皇子の死にはさまざまな謎があり、大伯皇女の心の中にも、なんらかのわだかまりがあったはずと思います。そこで、この死をイメージするものとして、「モミジ」と言っても鮮やかなイメージがある「紅葉」ではなく、若干暗いイメージをもつ「黄葉」を意図的に選びました。
大伯皇女は、父の天武天皇によって斎王(斎宮)に任じられ、伊勢神宮に仕えていましたが、大津皇子が謀反者として捕えられ、自害した後、退下し、都に戻りました。その後の生活は明らかになっていませんが、京都における戦乱や政争による出家・隠遁の地として知られている大原のような場所で、弟大津皇子の菩提を弔いながら、ひっそりと暮らしたに違いありません。大津皇子の死は、このように大伯皇女の一生にも影響を与えました。この大伯皇女の流転の一生を、この写真のせせらぎはイメージしています。